『常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う。』
アインシュタインの言葉だそうですが、15年くらい前、どっかの本屋で立ち読みして以来、常に頭のどこかにある言葉です。
世の中には、左から右まで、上から下まで、真っ白から真っ黒まで、まー色々な人が住んでいるわけです。
当然、自分もそのライン上のどこかにいるわけで、それは、自分とその周囲の常識であっても、みんなの常識ではないわけで、それこそ偏見のコレクション。
『人生とは自転車のようなものだ。
倒れないようにするには走らなければならない。』
走っていれば、自分の常識とは相いれない常識の持ち主と交差することもあります。お互いの偏見コレクションの見せ合いっこです。見せ合いっこする過程の中で、自分や相手がどこでその偏見をコレクトしてきたかもわかってきます。
過程≒家庭。
家庭の影響はやはり絶大です。その連鎖を断ち切れた人ももちろんいますが、何かしら影響(呪縛、と言ってもいい)はあるでしょう。
自分の育った家庭を振り返ると同時に、自分の今築いている家庭、自分の子どものことも考えるわけです。
『人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。』
自分の偏見コレクションを見つめ、知ると同時に、自分の言動、決断、生き方、一つ一つが、自分の子どもたちにコレクトされていくという事実、その重要性を、今一度、肝に銘じなければと思うわけです。
『成功する人間になろうとせず、むしろ価値ある人間になろうとしなさい。』
いいこと言うな、アインシュタイン。
『私たちの生き方には二通りしかない。
奇跡など全く起こらないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである。』
いいこと言うな~アインシュタインッ!
おしまい
今朝はうんと冷えた。
だが、昨晩のビュービューと風が吹く暗い雰囲気を思えば、きれいな青空がいっそう澄んで見えて、
潔い心地よさすら感じる。
8:30。
男は道を歩いていた。
人混みがキライらしく、裏通りを行く、だが決して目的地に遠回りではないルート。
男の性格がうかがえる。
一台のパトカーが男の側を通り過ぎていき、信号で止まった。
その後ろを、男は、いつものように道の反対側へ渡る。
そのルートが一番無駄がないからだろう。
信号がちょうど青になり、男とパトカーはほぼ同時に進み始める。
いつもの道を歩く男は、何となく、いつもは見ることのないパトカーを目で追っていた。
すると、パトカーの正面からこちらへ向かってくる自転車が目に入る。
初老の男性だろうか、荷台に大きな荷物を載せてよろめきながら、自転車を引いて歩いている。
パトカーは、その自転車の手前でスッと、実に紳士的に停まった。
男は警察が好きでも嫌いでもなかった。だが、
“よろめきながら進む初老の男性のためにわざわざパトカーを停めて手伝うのか、警察も悪くないな”
そんなことを思った矢先の出来事だった。
パトカーから降りてきた濃紺の制服の彼らは、初老の男性へは見向きもせず、
男のところへ駆け寄ってきた。
すがすがしい空気の中、警察も悪くないな、そんなふうに思って笑みすら浮かべていた、
その男のもとへだ。
「すいません、ちょっといいですかー?」
「はっ?えっ?おれ!?」
「ええ、ちょっとすいません、いわゆる職務質問ってやつで、ちょっとだけお話聞きたいんですけど」
「はぁー!?勘弁してくれよ、何で俺やねんっ!!」
男は、なぜ自分が声をかけられたのか理解できなかった。
こんなにマジメでいい人間なのに。。。
Fin.
カチャン。
キィィ~・・・・・・。
カチャン。。。
...
名残惜しむような、それでいて強い意志を感じさせるドアの開閉音に、
おぼろげながら目を開けた私は、布団を出ることなく、その音をただ聞いていた。
今朝は特に少し肌寒かったせいかもしれない。
そうではないかもしれない。
いや、そこに大した理由など、なかったのかもしれない。
なぜ立ち上がって、一言、声をかけられなかったのか?
言葉なくとも、なぜ、抱きしめてあげられなかったのか?
再び静まり返った室内に、1才と3才の愛娘たちのおだやかな寝息が響く。
彼女たちは何も知らない。
彼女たちには何の罪もない。
今朝早く、妻が家を出て行った。
To be continued.
急いで保育所への道を走る。閉所時間5分前、すっかり暗い。
朝預けるときに長女には「今日はパパがお迎えだけど、遅くなるよ?でもちゃんと行くからね」と
話をしたが、やはり不安だったのだろう、長女も次女もそろって私の顔を見るなり「パパ~!」と駆け寄ってきた。
帰り道。...
「今日のごはんはなに!?」とテンション高く長女が聞く。
「カレーライスと~後はみんなの大好きな~…」
「アボカドっ!」
「ピンポーン!アボカドとトマトのサラダやでー!」
「やったー!みんな大好きやな、アンナも、かれんも、パパも、ママもっ!」
ママも・・・。
夕食、皿洗い、洗濯、お風呂、ドライヤー、歯みがき、明日の保育所の準備に連絡帳の記入、
でも21時過ぎには寝かさないと明日朝が…平日の夜は忙しい。
バタバタとべき事をこなしているうちにあっという間に時間は過ぎ、娘たちに絵本を読みながら共に寝落ちてしまった。
翌朝6時前、長女に起こされ、目が覚める。
珍しい。普段は次女が1番に起きるのだが…。
私は、昨晩のバタバタの中、「子どもなんだから仕方がない」と頭ではわかりつつも、つい反応的な、
イライラした言葉も発してしまった自分の後ろめたさを埋め合わせるように、「いつも」より少し豪華な朝食の準備をする。
いや、「いつもと違う」という状況を暗に感じつつ、それを打ち消すように、「いつもと違う」ことに積極的な意味を持たせたい、そんな思いもあったかもしれない。
朝食の準備は、日頃から私の役割であり慣れたものだ。
子どもたちも機嫌よく食べている。
「ほら、やっぱり俺なら大丈夫!」
そう思った矢先、「いつも」の癖でコーヒーを2杯分淹れている自分に気づき呆然とする。
妻が家を出てから、1日と1時間が過ぎた。
To be continued.
「パパ~!」
今日も閉所5分前、2人抱っこから夜の部が始まった。
夕食は昨日のカレーに出汁とうどんを入れたカレーうどんとブロッコリーのサラダ。
代わり映えしない夕食に自分はげんなりだが、子どもたちは「パパが作ってくれたごはんおいしい!」と喜んでくれている。...
こうして父子家庭2日目の夜も、少々のトラブルはありつつも穏やかに過ぎていく。
2人を寝かそうと布団を引いた時、長女がトランプを握りしめて「トランプしたかった…」とかぼそい声でつぶやいた。
私は「かれんが寝たらできるんやけど…」と言ったが、長女は今日はできないということをわかっているようだった。
「ママがいたらできるんやけど…」
言いかけたが言わなかった。言えなかった。
「ごめんな、また時間ある時にやろうな」
「うん。。。」
夜中3時。
そっとトイレに立とうとしたのだが、次女が起きてしまった。
「パパ、パパ…」
不安そうな声で何度も呼ぶ。
「大丈夫、パパおるよ 」
そう答えて、私は再び布団に戻った。
そうして眠れないまま、2人の真ん中で私は強烈な使命感におそわれる。
次女の「パパ」と呼ぶ声が再び頭にこだまする。
“この子たちには私しかいない、私しかいないのだ、私が何とかしなければ、私が、私が…”
そして朝。
チーズトーストがまだ残っているが、先にみかんが食べたいとごねる次女。
“私が何とかしなければ…”
「パン食べてから!」
つい口調が強くなってしまった。
次女は驚いたのか、泣き出してしまった。
一足早くみかんにたどり着いていた長女が、
「かれん!アンナのみかん半分あげるからな!な?」
とやさしく声をかける。
この2日間、長女は「ママがいない」ことについて、何も言わない。
早くも自分の役割を感じとっているのか、元々やさしい子だったが、さらにお姉ちゃんらしく振る舞っている。
その言い方や仕草が妻のそれとだぶる。
“まだ3才、本当はまだまだ自分が甘えたい年頃だろうに…”
そう考えた時、ハッとした。
「だからこの2日間、寝る時の絵本は“ちょっとだけ”だったのか…」
妻が出て行って2日と2時間、彼女はまだ帰ってこない。
To be continued.
『ちょっとだけ』
http://www.fukuinkan.co.jp/detail_pa…/978-4-8340-2299-5.html
ピンポーン。
夜20時過ぎだったろうか。急にインターホンが鳴った。
長女は、配達のおじさんだと思って「パパ、ペンいる?」と受取サイン用のペンを
取りに行ってくれている。
私は裏切られた時の落差を恐れてか、無意識に沸き立つ感情を抑え、画面を見に行く。
そこには見慣れた顔が、小さなモニターいっぱいにうつっていた。
帰ってきたっ!!
久しぶりに4人で囲む食卓。
甘えまくる次女。「自分の席で食べない、ママの膝で食べる」とごね、
食事が終わっても「こっこ!こっこ!」(抱っこのこと)と妻の後ろをついて歩いている。
3日ぶりの再会が自分でも想像以上に嬉しかったのか、
なるべく2人の願望に応えよう応えようと甘やかす妻。
「今日は仕方ないか」そう思ってはじめは見ていたが、22時を過ぎて
「トランプする!」とカードを広げだす長女を、私は心を鬼にして止めた。
人には生きてゆく上で演じなければならない役割がいくつもある。
父親として、母親として、夫として、妻として、息子、娘、兄弟姉妹、社会人として、
他にも、人それぞれ、いくつもいくつもあるだろう。
妻に甘えまくる次女を見ながら、心では「そうさせてあげたい」と思いながら長女を止めた
自分を振り返りながら、やはり人には、その役割に対しての適性があると感じる。
しかし、演じなければならない役割たちは、その人の向き不向きを考慮しない。
私と娘2人で過ごしたこの3日間、私は自分の役割を全力でこなした。
だが、足りなかったものを取り戻すように甘える次女を見て、
「母親」という役割を十分に演じてあげられなかったことに気づかされる。
私が結婚した時に、誓ったことが3つある。
「家事はしてもらうことを当たり前と思わず、積極的にこなすこと」、
「妻がブルーな気持ちの時は正論をぶつけず、やさしく接すること」、そして、
「この先、何が起きても、何とかすること」だ。
長女は、相変わらずいい子で、特に何も言わない。
だが今夜の絵本は、2日続いた「ちょっとだけ」ではなく、サンタさんがウキウキで
ついはしゃいでしまうお話、「クリスマスの夜はしずかにね」だった。
朝。
3日ぶりに4本そろった歯ブラシを見ながら考える。
「この先、何が起きても…」
私の3日間の父子家庭生活は終わったが、「この先」は死ぬまで、いや、死んだ後すら、終わらない。
The end & To be continued.
縁、運、出会い、タイミング、もしあの時こうしていれば、、、
多かれ少なかれ、みな共通の思いがあることでしょう。
「おぎゃー」と生まれた瞬間から、いや母親のおなかの中にいる時から?
子どもは母親を選べないし、父親を選べない。
自分が男なのか女なのか、これも選べない。
「おぎゃー」と生まれた瞬間から、「なぜ?」ではなくて「そうなんだから仕方がない」の世界で、人は生きていく。
縁、運、出会い、タイミング、もしあの時こうしていれば、、、
「なぜ?」と問うのも自分、「意味」を見つけるのも自分、「割り切る」のも自分、「後悔する」のも自分。
そもそも「そうなんだから仕方がない」の世界で、「なぜ?」を問うことに意味はない。
現在、過去、未来。
過去は「今」の積み重ね、未来は「今」の積み重ね、私たちにあるのは「今」だけ。
「今」を生きる。
このシンプルな6文字を実現することが、いかに難しくて、いかに簡単か。
でもその「葛藤」が、「今」を生きようともがいている証だったりするのかもしれない。
縁、運、出会い、タイミング、もしあの時こうしていれば、、、
数え切れないほどの「奇跡」の延長にある「自分」を誇りに思い、「価値」を感じ、「感謝」をして、「恩返し」がしたい。
そして、そんな自分の人生が、また誰かの「奇跡」の一つになることを願って。
時は西暦2XXX年、人類はついに、人の視線を科学的に捉える技術の実用化と
量産化に成功、満を持して発売された商品「Mirare-TA」。
見た目は腕時計と変わらず、実際、それが「腕時計」なのか「Mirare-TA」なのかを
判別するのは不可能である。
科学の粋を結集して作られたこの画期的商品は、世の中から「勘違い」や「自意識過剰」がなくなり、逆に人々がより「美しい」と思うものが強調されていくすばらしい商品
だとして、大きな期待とともに、瞬く間に世界に広まった。
初期モデルには、メイン機能である「見られたカウント機能」の他、オプションとして
「部位別機能」「男女機能」「誰に機能」など多くの機能が搭載された。
①「部位別機能」
自分で好みの部位を登録することで、そのエリアに限定した視線をカウントすることができる。ただ、あくまでの「視線のカウント」であるため、好意的な視線、奇異的な視線、などの判別は個人の判断によるため、同じ数字を見てもポジティブにとらえる人、ネガティブにとらえる人、がおり、結果、最大の期待であった「見たいと見せたいの最適化バランス」を実現するには程遠い状態を創出、社会問題化して、「第二世代Mirare-TA」より、本機能は削除された。
②「男女機能」
やはり異性の視線は気になるもの、自分へ向けられる視線が同姓からのものなのか異性からのものなのか、単機能としての使用はもちろん、①「部位別機能」と合わせて使用することで、よりバランスされた社会の実現、また、服飾産業との連携による経済効果など、多くの期待を寄せられたが、1日の間に特定の人としか接しない人も世の中には意外と多く、そのような人々から「私の職場には異性が1人しかいないにも関わらず、とんでもない数の視線を向けられていることがわかり怖くなって会社を辞めた、どうしてくれるのだ?」というような苦情が殺到、さらには一部の国会議員から「ストーカー規制法に“1日に見てよい数”を盛り込むべきではないか」といった意見まで出始め社会問題化、「第三世代Mirare-TA」より、本機能は削除された。
③「誰に機能」
視線は視線でも、「大好きなあの人から私はどう見られているのだろう?」「こんな服が好み?こんな髪型?」など、やはり「誰からの視線なのか」は最大の関心事、目玉機能として搭載され期待を集めたが、人々の予想に反して、「さわやかなフリして、私の○○ばっかり見てる」など、知りたくない、知らなくてもいい情報が満載、異性間の当たり前の違いを認識させるいい機会になったと擁護する学者もいる反面、やはり「この機能のせいで円滑だった関係が崩壊しました、どうしてくれるんですか?」といった苦情が殺到、さらには「視線も立派な個人情報である、保護の対象にするべき」「いやいや、見られる側のプライバシーはどうなる?」といった国民的大論争に発展、社会問題化、「第四世代Mirare-TA」より、本機能は削除された。
こうして、大きな期待を受けて世に出た画期的ハイテク商品「Mirare-TA」は、
モデルチェンジを繰り返して、「とにかく見られた数をカウントするだけ」のシンプルな
商品に進化をとげた。
人々はこの現象を「進化による退化」と呼び、若者の中で「それ、SyT(シット“Shinka-niyoru-Taika”)だな!」という感じで大流行、その年の流行語大賞に選ばれた。
「知らないほうがいいことってやっぱりあるよね」
「やっぱりシンプルが一番だよね」
「想像する、察する、美意識ってあるよね」
「目に見えないものの大切さってあるよね」
「ていうか、音楽っていいよね!」
「ていうかKing-B Stirrersって知ってる!?」
練習で遅く帰ると、嫁が娘を寝かしつけてくれていた。
普段は私と寝ることが多いためか、玄関の扉が開いた音を聞いた娘は「パパがいいっ!」とぐずりだす。
しかし。
喜んではいけない。娘は眠いのだ。その睡眠欲が満たされていない状況を理解しておらず、
いや、勘違いして、「不満→ママだからだ→パパがいいっ!」、こういうことである。
だが、しかし。
実はこれ、子どもに限ったことではない。立派な大人でも、疲れている、忙しい、寝不足、暑い、
彼氏彼女とうまくいっていない、そんな理由からくるイライラを勘違いして、別の方向に発散している人間がいる。
こういう人間を「このアダルトチルドレンめ!」と私は呼んでいる。
アダルト=大人。
そもそも「大人になる」ってどういうことだろう?
ウィキペディアによると、
大人(おとな)とは、子供に対して、成人した人を意味する。さらには、精神構造が熟成していて目先の感情よりも理性的な判断を優先する人、もしくは自立的に行動し自身の行動に責任の持てる人の事を指す場合もある。または理性を優先するという点から、妥協や周囲への迎合、事なかれ主義などを、「大人の考え」「大人の都合」「大人の事情」「大人になれよ・・・。」などと揶揄して言う場合がある。
とのこと。
「大人になる」、この場合の「大人」は、
精神構造が熟成していて目先の感情よりも理性的な判断を優先する人
自立的に行動し自身の行動に責任の持てる人
このあたりになるのか?
では、自立的に行動し自身の行動に責任の持てる人で、理性的な判断よりも目先の感情を優先する人は
どうなんだろうか?
大人?子ども?
みなさんは大人になりたいですか?子どものままがいいですか?
そして、毎日セミの鳴き声を聞きながらふと思うのです、
「こいつらも長い子ども時代をへて、やっと大人になったんやな」と。
ところで、セミってある時期から大量に出てきますよね。
でも思うんです。
みんなが気づいていないだけで、ほんまは少し男気のあるセミがいて、
「そろそろ夏ちゃうか?もう行ってもいけんちゃうん?俺行ってみるわ!」みたいな。
その結果、早まって、ろくに子孫も残せぬままはかなく散っていった、誰にも気づかれていない「勇者」が
いるんではないかと。
セミたちの繁栄は、そんな「勇者たち」の犠牲のもとに成り立っているんではないかと。
今ギャーギャー鳴いてるお前たちは、そんな勇者たちにリスペクトの念をもっているのかと!
ただひとつ。。。
忘れてはいけないのは、「勇者たち」に打算がなかったか?と問われれば、そうとは言い切れない事実。
早すぎではないがみんなより少し早い→ライバル数は少なく、さらに他のオスたちより成熟した状態で全盛期を迎える→
より多くの子孫を残せる可能性が上がる。
なるほど、結局、より大きなメリットを得るためには、リスク背負わなあかんと。
早すぎはダメ、みんなより「ちょっとだけ早い」がいい、このタイミングを狙って、リスク背負って、世の中の経営者たちは
ヒト・モノ・カネを突っ込み、セミの勇者たちは地上へ出てくる、そういうことなんですね?
「大人になる」って、そういうことだったんですね!
あなたはどんな大人ですか?
あなたは、どんなリスク背負って、どんなメリットを望んでいますか?
あなたは、自分が本当に欲するもののために、どこまで覚悟できてますか?
あーなんかセミの声が聞こえ始めました、今から寝るとこやのに!
セミ・ファック!俺眠いねん、腹減ってんねん、おいしいもん食べたいねん、楽しいことしたいねん!
「このアダルトチルドレンめ!」
目が覚める。
重い身体を引きずり、トーストが焼けるまでの間、湯を沸かす。熱々の紅茶に牛乳を注ぎ、程よい温度になった肌土色の液体が、冷えた身体に心地よい。
もう朝日とは呼べない時間の太陽の光に目を細めながら、男は窓の外に目をやる。
いつもと何も変わらない時間。
そう、ただ一つを除いて。
そこにいつもあるはずの、キッチンに立つ妻の後ろ姿と、娘の明るい笑い声がないのだ。
男は昔どこかの誰かが言った
「大切なものはなくして初めて気づくのよね」
という言葉を思い出す。
大切なもの。当たり前のもの。
いや、当たり前だと思っていたもの。
なぜこんなことになってしまったのか?
男は改めて、昨夜の出来事を思い返す。
妻「なぁ、ちょっと聞きたいことあるんやけど。」
男「なに?」
妻「これ、誰の髪の毛・・・?」
俺!俺!それ、俺の毛やからーっ!
私事ですが、2年前に買った車(マークⅡブリット)をこの度、売却することにしました。
「その金額では話になりません」ていう業者さんは電話でお断りして、残った5社さん全部、
同じ曜日の同じ時間に来てもらい、査定してもらいました。
ところがどっこい、どの業者さんもピンポイントの値段を出さへんのです。
「いや~TakaJinさん、例えばね、A社さんが50万言うてね、それがわかったら、
ほなうち51万出しますわ!てなるでしょ?だから先に言いたくないんですわ…」
なるほど、みんな「後出しジャンケン」したい、と。
それはわからんでもないんやけど、「査定」やねんから数字出さんかいや!何見に来てん!
と、ちょっとイラッとしつつ、「後出しジャンケン」について思いをはせる。。。
後出しジャンケン。
子どもの頃、これはやってはいけない「ズルいこと」として学びました。
しかし、それが大人になるとどうか?
資本主義社会、競争社会において「後出しジャンケン」はズルでも何でもない、当たり前のテクニック
として扱われます。
「情報収集」。
営業の基本ですよね?
もちろん全てとは言いませんが、収集する情報には「後出しジャンケン」するためのものが
当たり前のように含まれています。
でも、みんなが後出ししようとしたらどうなるのか?
みんなが「後出し」しようとする、結果、誰も何も出さない。
出さなきゃ勝てない、でも最初には出したくない。
みんながそう思うから誰も動かない。
互いに、手の内を隠しながら、相手の手の中を見ようとする、無駄な労力が使われます。
子どもの時代にはやってはいけない「ズルいこと」と教えられ、大人になれば社会人として
当然やるべき「当たり前のこと」として教えられる。 深いぞ、「後出しジャンケン」。
そもそも、なぜそのようなギャップが生まれるのか?
理由①子どもには「理想」として教えるが、「現実」は違う
理由②「後出しジャンケン」は諸刃の剣、強力過ぎる武器ゆえに子どもには御しきれないので教えない
理由③ボビーさんが「後出しジャンケン?子どもに教えるなんてイキじゃないよね」と言ったから。
はい、正解はもちろん③、ボビーさんが「後出しジャンケン?子どもに教えるなんてイキじゃないよね」
と言ったから、です。
King-B界隈の人たちなら、みんな知っています、定説です、あたりまえだのクラッカー!です!
おしまい!
ボカーン!
ボビーさん勝手にすいません!
突然ですが、皆さん「くち」についてどうお考えでしょうか?
私は、「くち」というのは、特別な部位やと思うのです。
食べ物を食べる。
食欲。
いわゆる3大欲求の1つです。
愛情表現の手段や、時にセクシャルな役割も果たします。
性欲。
3大欲求のうちの1つです。
さらには、人は社会的な生き物だと言われています。
人は1人では生きていけません。
「無視」がイジメになる理由、「ネグレクト」が虐待になる理由、
FUNKY MOVEが「FUNKY
MOVE」である理由、全て根っこはいっしょです。
だから人は、人とコミュニケーションをとるのです、「くち」で。
だからサミーさんは歌うのです、そう、その細マッチョセクシーボイスを発する、その「くち」で!
(サミーさん、勝手にすいません(>_<))
そんな語り出せばきりがないほどスペシャルな部位、それが「くち」です。
言うなれば、人にとって一番大切、かつプライベートな部位だと言えます。
そんな部位である「くち」を、きれいなお姉さんに指でグリグリ突っ込まれるという、かいか…
いや、屈辱。
そんな部位である「くち」の中をウィーン!と音を立てる器具でグリグリされる、かいか…
いやいや、恐怖。
そんな部位である「くち」をいじられに後最低4回、次からは麻酔もして、
さらにハードプレイでいくそうな…
はぁ~歯医者コワイ…(+_+)
誰かがどこかで嫌な思いをして、負の気持ちをいだく。
その負の気持ちを、誰かにぶつけることで発散する。
その誰かは、また他の誰かにその気持ちをぶつける。
この現象を、負のキャッチボールと呼びます(勝手に)
このキャッチボールを追いかけていくと、最後はどこにいくのか?
いや、そもそもどこからスタートするのか?
とりあえず、このキャッチボール連鎖に巻き込まれた時にどう対処するのかについて考
①同じように他の誰かに投げる。
(往々にして投げやすい人、自分より立場の弱い人、話聞いてくれ
②投げてきた本人に投げ返す。
(相手もまた返してくるし、エネルギーを使うのでしんどい)
③自分で処理する。
(酒、趣味、睡眠、等、人によって異なる)
①はできるだけ避けたいところ。
くらった方は理不尽極まりない気持ちになる。ただ、やりやすい。
家庭内暴力、子供の虐待などの問題は粗方、この方法による結果ら
②はお勧め。目には目を、歯には歯を、負の気持ちには負の気持ち
ただし、投げた本人に「こいつに投げんかったらよかった・・・」
この方法がしっくりくるアナタ
③大人の選択。
「自分がやられて嫌なことは人にしない」。心に余裕をもって、割
引っくり返してプラスに変える、そ
今日は複数人からキャッチボールに誘われました、俺ってば人気者!
「人気者」の続き。
負の気持ちを自分で処理しきらんまま、人にボールを投げる勇気も
そんな気持ちのときに、
何気ない会話とさり気ないボディタッチで元気づけてくれる人がい
感謝しなければいけませんね。
ちなみにこの行為を「エナジータッチ」と呼びます。(勝手に)
エナジータッチを受けた人は軽くテンションが上がり、
「癒された♪」と感じることが多いようです。
ちなみにこのテクニックを基本にサービスを提供している業態を「
このテクニックは相手との関係性が重要です。
つまりキャバ嬢とは「相手との距離感を絶妙にコントロールしなが
行うプロフェッショナルな人」です。
そういう意味では、シャクティーパットを行う教祖も同義になりま
キャバ嬢=教祖、です。
・・・。
なんとコメントしにくい内容・・・
読んでくれてる人に申し訳ない・・・
浮いた時間で、ゴールを見据えずに書き始めた結
やっぱり何事もイメージが大切やな、特にゴールイメージが!